18世紀初めの頃の近世の時代に入り、池田町とその周辺の村々では歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居(現在、能勢地方で盛
んです)や相撲が盛んに行われていました。相撲は中世においては、専ら武士の組み討ちの為の武芸の一つでした。そ
れが近世には庶民の愛好するものとなり、プロの相撲取りも出てくるようになり、大相撲の興業もおこなわれるように
なりました。
その名関取ぶりは「関取千両幟」という浄瑠璃に書かれ、道頓堀の芝居小屋(竹本座)にも上演されました。
猪名川政右衛門は寛政年間(1789年〜1800年)には、現役を引退し、年寄藤島を襲名して、雄山岩右衛門や
常陸山吉右衛門らの弟子を育てました。猪名川政右衛門の弟子、常陸山吉右衛門は大坂(江戸時代の大阪は大坂と書く
)大相撲では、前頭が最高でしたが、池田相撲の関取となりプロ・アマを含めた沢山の力士が生まれました。
神田、今在家、畑、渋谷、尊鉢など地元出身の相撲取りが出ました。このように池田相撲の先駆者となった
常陸山吉右衛門の墓は池田・大広寺にあります。
五月山のステージのある広場の西側の、数年前まで売店があった広場が昭和初期まで「池田巡業場所」の土俵があり
ました。
また、神田では夏に各村の青年会から何名か「ふんどし」をしめた力士を選出し各村の相撲大会が毎年、神田・米倉庫
前で開催され見に行っていましたが、戦後はなくなりました。神田でもプロの力士?が明治時代?に、2〜4名程おられ
たそうで、神田墓地に埋葬されています。
「角聖」と呼ばれた明治の大力士で第十九代横綱・常陸山谷右衛門は明治32年に入幕を果たし、4年後に横綱に昇進、
二代目梅ケ谷と共に明治の相撲黄金時代を現出しました。引退後は年寄・出羽海を襲名し、協会取締となって角界の発展
に尽されました。
昭和の初期には、相撲の盛んな大阪府下の各小学校には土俵があり、子供達は相撲に親しんでいました。昭和14年の箕面
小学校の土俵開きには横綱・双葉山の土俵入りが行われ、周辺住民が大勢押しかけたそうです。
昭和18年には北豊島国民学校の土俵には第34代横綱・男女ノ川登三(みなのがわ・とよぞう)が土俵入りをし、取り組
みを披露しました。


そして池田は多くの相撲取りを生み、育てました。
なかでも酒造家多田屋からは、大坂の藤森森右衛門に弟子入りし、宝暦期(1751年)から明和期(1772年)に江戸・大
坂の大相撲で活躍した初代猪名川政右衛門は有名です(力士銘々伝はコチラ)。この力士のお墓は池田・西光寺に
あります。

愛宕神社でも、相撲の取り組みをしていたという歴史が残っている
如何でしたか?「相撲」の視点から池田を見ると、様々な行事があった事に気がつきます。我が、(社)池田青年会議所が主催する「わんぱく相撲 池田場所」も、開催までにとうとう一ヶ月を切りました。
青少年の健全な育成を目指して、皆様も参加されては如何ですか?
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「池田」と「相撲」。実は深いつながりがあったのです・・・・・
文献等のご協力 : 村田昌義 様